vol.33:撮るという行為

ニューヨーク、ワシントンの同時テロから2週間がたった。


当初、定点カメラからの映像のみだったが、時間がたつにつれ一般人がホームビデオで撮った映像が数多くテレビで流された。ビデオが普及した現在、大きな事件事故のときには必ずホームビデオで撮られた決定的瞬間というのが出てくる。


様々な報道の中には日本人観光客の行動についてのものもあった。

「事件現場を前に記念写真を撮る旅行者」「避難警告の中フィルムを求めて店に殺到」「笑顔でインタビューに答える新婚カップル」「ビデオを片手にジャーナリスト気取りの学生」

HPから映像を公開しているのもいるらしい。そこにはしたり顔のコメントが付いているはずだ。そういった報道を見ると不快な気持ちで一杯になる。「何様のつもりだ!」とね。


が、いざ自分自身が現場に居合わせたとしたら… 間違いなく飛んでいく。警備をかいくぐっても近づく。妙に冷静に辺りをうかがいシャッターを切る。もしかしたら避難命令すら聞いてはいないかもしれない。


自分はプロカメラマンだが報道カメラマンではない。発表媒体があるわけでもない。撮ったところで誰に褒められるわけでもない。それでも危険を冒してまでも現場に居合わせたら撮る。逃げるとしても撮りながら逃げる。体半分は現場を向きながら。


短い間だが新聞記者の経験がある。大きな事件、事故で犠牲者が出る現場も多々あった。そのたびに遺族の心情を無視するような写真を撮っていたのも事実。どんな現場でも、いたって冷静にシャッターを切っていた。ピントは、露出は、フィルムの残数は、ワイドで突っ込むのか長いので引っ張るのか、ストロボは…


そんな時、「今、俺は仕事をしているのだ」という陶酔感が襲った。あの現場のビリビリした空気が好きだった。しかし醒めてしまうと高揚した分だけ自己嫌悪に落ち込む。現場に出るとその繰り返し。「いったい俺は何様だ?」報道を振りかざして撮る傲慢にいつも気持ちがもやもやしていた。


それなのに事件や事故のニュースを見る度、今だに心が揺れる。ニューヨークに行ってみたいと思う。崇高なジャーナリスト魂というよりも卑近な野次馬根性で。


カメラマンとは、撮ることでしか社会と繋がっていけない人種。その行為が良いか悪いかの判断は写真を撮ってから考える。


現場にいたら撮る。僕はそうする。


前回のコラム「Attack On America」の井上匠君がその後のニューヨークの写真を送ってくれた。彼もまた写真を撮りながら逃げた一人だ。


井上匠より

昨日、ホームページを拝見しました。拙い文章で気が引けますがなにか感じてもらえれば幸いです。日本もテロ攻撃の対照らしいですね、ホント、何が起きても不思議で無くなってしまっている最近なのでテロ、緊急時対応を日本も真剣に考える時期なのかもしれませんね。「韓国はミリタリートレーニングをしているから、日本と違ってこんな時役立つよ。」とコリアンの友人は言っていました。確かに、日本では自衛隊の到着まで警察と消防だけで一般市民は何のトレーニングも受けてなく対応の遅延は否めないでしょう、現状では。石原都知事も視察に寄るべきだったのに、と彼の都合度外視で思いました。日本の軟弱化を経済以上に感じてしまうのは私だけでしょうか。ニュ−ヨークは、ほぼ平常に戻り、ワートレ周辺の5、600mまでは通行可能みたいで、昨日はシティホールまでは行けました。しかし西側はまだ時間かかりそうです。