vol.66:皮算用

「日本対ベルギー」戦、日本リーグ時代からサッカーを見ている者にとって、代表選手たちの堂々たる戦いぶりには感慨深いものがあった。


と同時に、どうしても残り数分が凌ぎきれなかった「ドーハの悲劇」を思い出してしまう。「ドーハの悲劇」を思い出すとそこには必ず中山のベンチから崩れ落ちる映像がだぶる。あの瞬間、日本中が落胆しただろうが、別の意味で僕も椅子から転げ落ちんばかりのショックを受けた。まるで当たっていた宝くじをすんでのところで奪われたような。




1993年、「カズ」の出現によってワールドカップが俄に現実味を帯びてきた。「もしかしたら行けるかもしれない」


そんな風に世間が浮かれ始めていた時、ワールドカップアジア予選直前の壮行試合「キリンカップ」の撮影依頼が来た。雑誌「ナンバー」で9ページ、「カズの向こうに世界が見える」というテーマだった。カズを軸に日本代表を撮影するという内容。


与えられたのはテーマだけ。後は“ご自由”にということだった。ただしこれは僕の腕を信用して言っているのではない。


依頼はあっても、その試合には編集部の腕利きのカメラマンが2人撮影に派遣されるし、フリーカメラマンもたくさん集まる。場合によっては彼らの写真が採用されて僕の写真は1枚も使われない事態も十分ありうる。だからこそ編集部も「渡部さんの好きなように」ということが言える。ようするに保険はたっぷりと掛けてあるということだ。


その頃のナンバーは、カメラマンにとって色々な手法を実験的に試すことが出来る場でもあった。やるからにはなにか派手なことをやってみたい。前回の撮影では、ラグビーの撮影で高感度ポジフィルムに濃いフィルターを入れてカラーバランスを崩し、なおかつプリント時に手を入れて写真を作ったが、今回はもっとビビッドな色を出したい、コントラストももっと上げてみたいと思った。


試しに以前撮ったサッカーのポジをデュープ(ポジの複製)してみた。コントラストは多少上がるものの色が濁るだけで効果的とはいえない。次にポジを引き伸ばしに掛け、シノゴのフィルム(葉書サイズのフィルム)に焼き付けてみた。その際、フィルターや濃度を変えたものをたくさん試してみた。しかしその上がりもシャドーが浮いてしまい望むようなコントラストが得られなかった。


数日後、ライトテーブルの上に放って置いたシノゴのフィルムの中で、同じカットから濃度を変えて露出オーバーにしたポジが2枚、目に付いた。なにげなく2枚を重ね合せてみると突然立体的な画像が浮かび上がってくるではないか。まるで新しい手法を発見した思いだった。コントラストは高いのだけれどディティールは豊富。色調は赤、青、緑の三原色のみが強調されている。




「キリンカップ」第一試合は博多の天神で二試合目は国立競技場で行われた。機材は旧EOS1を二台にEOS5を一台。レンズは500ミリ、300ミリ、80〜200ズーム、20〜35ズーム、15ミリ魚眼レンズに積層電池つきのストロボと一脚を用意。フィルムは一試合あたりコダクローム200が30本。スポーツカメラマンの標準的な装備とはいえ、肩に荷物がギリギリと食い込む重さだ。


博多のゲームではグランドのコーナーポスト寄りから、国立ではスタンドから狙うことにした。下からは選手のアップを、上からはサポーターを含めた盛り上がりを撮ろうとしたのだ。


国立競技場のスタンドでは正面中段上、日本代表ベンチの真上に陣取った。カズが得点を挙げれば必ずオフト監督の下へ駆け込んで来るという読みからだ。


第一試合、対ハンガリー戦は敗れたものの、第二試合、アメリカ戦ではカズの2ゴールが決まって日本が勝った。そして狙い通りカズがゴールを決めベンチに駆け込むシーンをものにすることが出来た。


事務所に戻り一旦ポジを現像し、それからが本番だ。ある程度セレクトした大量の35ミリポジを濃度、色味を変えシノゴに焼き付けていく。その現像が上がってきたら2枚をきっちり張り合わせてプリントする。丸2日間、手間暇をかけ30枚のプリントを作り上げた。


出来上がった写真はギトギトのコテコテだったが盛り上がった会場の熱気だけは伝えられた気がした。編集部に原稿を持ち込むと担当者は絶句。「いくとこまでいっちゃいましたね」それは心地よい褒め言葉に聞こえた。だってそれを狙っていたのだから。




発売されるや反響はすごかった。まったく知らないところからもジャンジャン電話で問い合わせが来た。多くは僕がサッカーのスペシャリストだと勘違いしての話だったが、その持ち上げられ方は僕を有頂天にさせるのに十分だった。


その中でも出色だったのは、スポーツシューズメーカーのAと食品メーカーのSの二社が、ワールドカップ出場が決定した折には、ポスター、新聞広告、パンフレットなどで一連の写真を全面展開したいというものだった。


Aは関西電通から、Sは東京電通からの申し出だった。話は具体性を帯びていて、結局Aに権利を譲ることにした。使用料はワールドカップ出場後に決定ということだったが、広告のラフ案はもうクライアントに通っているわけだから、こちらは圧倒的に有利な立場に立てるはずである。


ポスターで幾ら、新聞広告で幾らと皮算用は止まらない。アレ買ってココ行って、気分は宝くじを当てたようなものだ。


ワールドカップ予選最終戦、ドキドキしながらキックオフを待った。あんなにも応援に力が入ったことはない。ロスタイムに入ってからは身もだえしそうになった。そしてあの結末。中山が崩れ落ちるとともに僕のなかでも何かがはじけた。機材が、海外旅行が…


その後電通からなんの連絡もない。当たっていたはずの宝くじは、すんでのところで逃げていったのだ。

(2002/06/09)