vol.68:ブロニカS2

大学一年生の春、35ミリカメラしか知らなかった僕に、名古屋の写真館の息子がちょっと変わったカメラを貸してくれた。


「ハッセルって知ってる?それと似てるんだよ」。ハッセルの名前は知っていても実物を見たことはまだなかった。ゴツゴツと重みのある、今まで見たこと無い形のカメラはゼンザブロニカS2だった。


巻き上げノブを回してシャッターを切ってみると「ジャカシャン!」という甲高い音が辺りに響き渡った。予期せぬ音に思わず回りをキョロキョロと視線を泳がせたほどだ。ミラーショックの激しさは半端ではない。レンズをはずして中を覗いてみるとミラーが上に跳ね上がるのではなくボディ下に滑り込むように収まるようになっていた。その独特の機構のため後部レンズが出っ張っている広角レンズが使えるとか、ハッセルにはないクイックリターンミラー機構になっているとかはずっと後になって知ることになる。


一緒に貸してくれたレンズはニッコールのP75ミリとP50ミリ。レンズはヘリコイド部分を残して交換する方式で、フォーカルプレーンシャッターということもあってレンズ自体には絞りしかついていない。友人は「ブロニカ製レンズもあるがニコンのレンズのほうが断然写りがいい」と教えてくれた。おそらくそれほどの違いはないのだろうが「レンズはニコン」という神話をまだ信じられる時代だった。


使ったことのある人なら分かってもらえると思うが、初めて35ミリから中版カメラに持ち替えると、たとえそれがどんな機種であろうとその仕上がりの精緻さに驚き、虜になってしまう。特にモノクロプリントにおいては、情報量の格段の違いにめまいがしそうなくらいだ。


「神社の境内で撮ると鳩が驚いて飛び立つ」と揶揄されたシャッター音だったが、人物の撮影には「撮影しています」といった雰囲気が出て、かえって好都合だった。手持ちでウエストレベルファインダーを覗き、大きな音を立ててシャッターを切るのは、いかにもプロっぽくて気持ちがいい。ロクロクの正方形の画面も35ミリにはない特別感を与えてくれた。


レンズの描写は、写真を始めて間もない学生のプリントからそれを云々いうのはムリがある。それでも75ミリはシャープでフレアも少なく、いいレンズなんだろうなということだけは分かった。対して50ミリは中心部こそ細かい写りがするのだが周辺部は激しく流れてしまっていた。その後色々なレンズを使ったが、こんなにはっきりと周辺がないレンズを見たことがない。引き伸ばしが悪いのかと疑ったくらいだ。ルーペでネガを確認するとやはり周辺はハデに流れている。


話は飛ぶが、近頃は複写をするのでなければフレアやゴーストが派手に出るような癖のあるレンズが好きになってきた。


きっかけはサリー・マンのオリジナルプリントだった。バイテンの大型カメラには得体の知れない旧いレンズがつけられていて周辺は放射状に激しく流れている。が、それによって中心部の主題に目が吸い寄せられる効果を生み出していた。フレアやゴーストは夏の避暑地のけだるさを現すのに重要な役目を担っていたのだ。




2年間、まるで自分の物のようにブロニカS2を使っていた。ある日、演劇学科の女の子をモデルに写真を撮れることになった。かわいい娘を前に否が応でも張り切ることになる。ここはひとつ35ミリではなく中版だろうと、撮影前日、ブロニカを抜かりのないように点検し各部を掃除した。


ファインダーを覗くとルーペがきれいになった分、スクリーンの汚れが気になり始めた。きついフレンネルのスクリーンは、ゴミがたまりやすく掃除が大変だ。ファインダーに手を突っ込んで拭いたのだが、汚れがスクリーンにこびり付いて余計見苦しくなってしまった。


業を煮やしてファインダー、スクリーンのネジをドライバーではずし心行くまで掃除をした。組みあがったファインダーは見違えるように明るく見え、明日の撮影の成功を予感させるようだった。




当日は天気もよく、実に楽しい撮影となった。モノクロでの撮影だったからその夜すぐに現像。ネガが定着されると水洗するのももどかしく、濡れたフィルムに目を近づけた。




あってない!ピントがまるであってない。ほんのちょっとずれているというレベルではない、まるで輪郭がない。1本、2本、3本ことごとくピンボケ。わけが分からない。どうなっているんだ。


慌ててカメラを取り出し、ピントリングを回していると無限大にピントが来ないことに気がついた。「アツ!」全身から血の気が引き、ふわふわと宙に浮いた気分になった。


S2はスクリーン交換式ではない。勝手にネジ止めのスクリーンを取り外したためにフランジバック(レンズからフィルムまでの距離)とピント面(レンズからファインダースクリーンまでの距離)が狂ってしまったのだ。ファインダーの見かけ上はピントがくるが、実際にはまるであっていない状態になっている。


ブロニカで撮った写真は全滅。あえなく再撮となった。彼女に事情を説明する時のかっこ悪いことといったら、情けないこと夥しいものがあった。


ブロニカは調整に出しピントが来るようになったものの、以前のようには持ち歩くことがなくなり友人に返すことになった。S2には何の落ち度もない。わかってはいたのだけれど、手にすると失敗が思い出されるようで嫌だった。


僕にとってブロニカS2は失敗を始めて教えてくれた苦くて懐かしいカメラとなってしまった。

(2002/06/24)


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撮影データ 1980年7月 ブロニカS2 ニッコール75ミリF2.8 プラスX