vol.74:御巣鷹山

先月から、デザイナーのマシンからサーバーにアップできなくなったり、僕のバイオが修理して一月も立たぬうちに再度調子が悪くなってメーカー行きになったりと、更新が出来ずまいっています。


どうしてもこのことだけは書いておきたかったので、お盆の時に一気に書き上げました。少々長めですがおつき合いください。




今年もまた8月12日が来た。


テレビではまるで夏の風物詩のように御巣鷹山慰霊登山のニュースを流している。もうあれから17年。あの時三歳だった子供が二十歳になるくらいの歳月が過ぎた。




1985年8月12日。やはり今年のように暑い夏の日だった。




その頃のワイドショーの話題はといえば「ロス疑惑、三浦和義」で持ちきりだった。テレビ、雑誌、スポーツ新聞を含めた芸能マスコミは、綻びの出始めた三浦氏を執拗に追いかけていた。


「Xデー」と名づけられた逮捕の瞬間を押さえるべく連日朝から晩まで張り付いていた。しまいには三浦氏が住んでいた千葉のマンションの玄関が正面に見える宿を各社押さえ、1000ミリ近い望遠レンズをズラリと玄関先に向けて設置していた。


若手が交代で張り込みにあたり、その日は僕の番であった。前日から宿に泊り込み、朝7時前から玄関前で氏が出てくるのを待っていた。いつ出てくるのか、もしかしたら今日は出ないのか、そんなことは張り込みをしている者には皆目検討がつかない。ただひたすら出てくるのを待つ。トイレに行く回数を極力減らすために水分も控えめにしなければならない。食事も満足に取れない。なにをするでもなく炎天下の下、ただひたすら玄関前で待つ。


午後一時過ぎ、ようやく三浦氏がマンションから出てきた。取りあえずマンションの出を各社撮る。20ミリレンズを鼻面にあたるくらいまで近づけて、昼だというのにストロボを至近距離からお構いなしに焚き付ける。シャッタースピード250分の1秒、絞りはf11。氏がフロントガラスまで真っ黒にシールドされたスポーツカーに乗り込むのを確認すると、待たせてあったハイヤーに乗り込み行き先を追いかける。


動きがあったことにほっとする。何も動きがないというのが一番つらい。まかれないようにテールツウノーズでピッタリと後につく。ターゲットの車との間に、他社の車が2台以上入られると、信号で置いてきぼりにされる可能性が高いから各社必死である。急発進、信号無視、一通逆走は日常茶飯事だ。 着いた先は渋谷の桜ヶ丘。今渋谷再開発で大型のホテルが建っている辺りだ。まだ小さい店が軒を並べていた坂の途中の一角に、氏が新しく始める予定のお店「フルハムロードYOSIE」があった。


その日はもう逮捕劇はなさそうな気配だった。デスクからの緊急の指示も出ていない。付いてきたマスコミも三浦氏と名刺交換などを始めてなんとなく緊張感がなくなってきた。「新しく作るお店の看板を取り付けるのを見守る三浦和義」という絵が撮れたのが合図のように各社、三々五々解散していった。 最後に残った僕も「戻ってよし」のデスク指示を受け、ようやく社に戻ることが出来た。まだ朝から何も食べていない。空腹はとっくに通り過ぎてもう何も感じない。


写真部に戻ると入稿前の忙しい時間帯だというのに人気が少ない。暗室に入っているのも若手のバイトだけだった。


コダック社製の大型自動現像機に今日撮った6本のフィルムを通す。5分ほどで乾燥した状態で排出されてくる。それを90センチ×180センチの大型のライトテーブルにバサリと載せ、直接ルーペでチェックする。6駒にカットしたり、ネガケースに入れたりはしない。めぼしいカットにはパーフォレーションの部分に切りかけのノッチをいれて暗室内でも手探りで必要なカットが分かるようにする。


暗室にはニコンの35ミリ専用オートフォーカス引き伸ばし機が10数台。中央には蛇口をひねれば現像液が出てくる大型の現像漕、絶えず水が循環している停止漕、定着漕からは外の水洗場へスロープを使って落とし込める。締め切り時には大人数でも同時に作業が出来るようにしてある。


「新しく作るお店の看板を取り付けるのを見守る三浦和義」という分かりやすい写真を焼いてキャプションをつける。デスクにそれを上げて本日の仕事は終わるはずだった。


ライトテーブルにほって置いたネガフィルムを片付けていると、突然「ピーポー」というサイレンが編集部に鳴り響いた。一瞬身体がビクリとする。


サイレンは共同通信が発信している緊急ニュース連絡の合図だ。突発的な事件、事故、災害を伝えてくる。そのサイレンがなると若手は一斉に身をすくめる。ろくな事がないからだ。ちなみに「キーンコーン」という間延びしたサイレンの時は、戦争が勃発したの、政権が転覆しただの、一介のスポーツ新聞には手におえない話なので大変なニュースなのに逆に安心して聞いていられる。


サイレンの後に続く速報に耳を傾ける。どうか関係のない話でありますように。


願いもむなしくニュースは「大阪発羽田行き日航123便が消息不明」という重大なものだった。


にわかに編集部内が慌しくなった。テレビでも速報で事故の行方を伝え始めた。もう帰りたかったのだが、そんなことを口に出せる雰囲気ではなくなった。それにしても写真部にカメラマンの姿が見えない。先ほどまでいた数名も消えている。どういうわけだ。


「ナベ用意して!」ついにデスクの指示が出る。しょうがない、カメラマンは僕一人なのだから。新しくフィルムを30本補充してカメラとストロボの電池を代える。長丁場になりそうな気配がした。機材はキャノンのニューF−1が2台にT−90。20-35ミリ、80-200ミリのズーム、300ミリ、2倍のテレコンバーター。サンパックのストロボ、オート25SRに積層電池パック。お約束の脚立。


地下の食堂でパンとジュースを買うと黒塗りの社用車に乗り込んだ。たまたま手が空いていた社会班とは関係ないスポーツ担当記者が2人、道連れとなった。


最初の一報から1時間も経つのに一向に詳細が明らかにならない。ニュースは、大阪から羽田に向かった日航123便の交信が途中から途絶えた、現在位置の特定できていない、の繰り返し。編集部からの指示はラジオニュースを聞いて行動しろという極めてアバウトなもの。まだ自動車電話も付いていない時代、首都圏を離れると社の無線も効かなくなる。


コンビニで食料と飲み物、下着、雨具、大型の懐中電灯を揃える。こうなったらいつ帰れるかは分からない。出来るだけの準備を整える。定時の連絡でも何処に向かっていいのかはっきりしない。長野県が怪しいということで関越を北上することにした。


「赤い炎が上がるのが見えた」という情報が入った。もう墜落は確実。位置的に長野県の小倉山に墜落したのでは、という憶測が流れた。小倉山に続く山道は自衛隊、警察、マスコミの車でごった返していた。 辺りはもう真っ暗。あんな巨大なジャンボジェットが墜落したのなら場所くらい分かりそうなものなのに。ヘリかセスナでも飛ばして上空から発見できないものなのか。


反対車線を猛スピードで走るマスコミの車を見ると、なにかあったのではと各社Uターンさせその車を追いかける。情報が少ないからちょっとした事で惑わされてしまう。結局なんでもないことが分かるとまた戻る。一晩中小倉山のある北相木村付近を車で走り通した。 車内ではできるだけ眠るようにした。今出来ることは身体を休めることだけ。僕が気をもんでも仕方がない。仕事はこれからたくさんある。


夜が明けて初めて墜落場所がはっきりした。群馬県御巣鷹山、山中。周りを山で囲まれていて登山用の道すら付いていない場所に墜落しているのが上空から確認された。自衛隊のレスキュー部隊がチームを組んで山のふもと3箇所からアタックをかけることになった。


どのルートが通じているかはわからない。マスコミもレスキュー隊について行く事になるが、1チームしか出ていない我々は失敗のことを考えふもと待機を余儀無くされる。警察、マスコミが前線基地としている上野村でジリジリと進展を待った。




このときほど報道は組織でするものだと強く感じたことはない。上野村唯一の雑貨屋は「NHK」が、「朝日新聞」「読売新聞」「共同通信」も民家を借り上げ「臨電」と呼ばれる緊急電話線を引いて早くも臨時支局を作っていた。


大人数を送り込んで情報を集めている大会社を横目に、3人だけで取材しようとしている我々は、気力だの体力だので組織に対して臨むしかなかった。




お昼過ぎに1ルートが現場に到着。残り2ルートは失敗の連絡があった。「生存者若干名」の報に沸き立つ。我々もそのルートでと考えたが、登りだけで5時間強、帰りも考えると日没になるので断念。深夜、近くに宿を取りようやく身体を休めることが出来た。


翌14日。上野村から現場へ。午前7時、登山を開始する。学生時代から山登りの経験などない。おまけに急な出発だったので軽装で来てしまっている。靴もスニーカーだ。カメラバックを持っての山登りは負担が多すぎる。当時着ていたカメラマンベストのポケットに、モータドライブをはずしたカメラボディを2台。レンズがズーム2本とテレコン、小型ストロボとフィルム、雨具をバラバラにしまいこんだ。必要最低限の機材だがズシリと身体に食い込む。


それと缶ジュース。今ではお茶のペットボトルが当たり前だが、その頃の主流は缶コーヒーと炭酸飲料。上野村周辺では食料や缶ジュースが、支局を作っている大会社に独占され、ポカリスェットやウーロン茶などは貴重品となっていた。やっとの思いで確保したウーロン茶1本とコーラ、2本の缶コーヒーをポケットにねじりこんだ。


道は完全に獣道だった。人、一人しか通れない。薮や笹が容赦なく身体を傷つける。所々に迷わぬようにリボンが結んであるが小さくて分かりづらい。草が倒れていることで、これがルートなのだと解釈するしかない。


垂直な壁にはレスキュー隊がチェーンを垂らしてくれていた。一緒に登っている他のマスコミの姿を見失ったら即遭難の憂き目に会う。出発から4時間、一山越えたところで開けた尾根に出た。木々の隙間から反対側の山に、尾翼の一部と見られる残骸が目に飛び込んできた。JALのマークがはっきり見える。


事故現場はその向こう側だと教えられる。もう一息というところで自衛隊員が「ここから先が現場です。水はこの先ないのでこの川で飲んでください」と教えてくれた。残り2本となった貴重な缶ジュースを取っておくためにその言葉に従うことにした。しかし後々、それが僕を数年に及んで苦しめることになる。


現場に近づくにつれ、重油を焦がした臭いが鼻を突くようになってきた。尾翼の横を通り過ぎ山の上に立つと、すり鉢状になった山の一部がくの字に引っかいたように地肌をさらしていた。その周辺の緑は黒く、もやがかかった様になっている。機体は引っかき傷の最後の方に折れ曲がって散乱していた。


機体に近づくにつれ臭いはますます激しくなってくる。自衛隊員がひっきりなしに布袋を運んでいる。それが何であるかは容易に想像がついた。カメラマンが群がっている焼け爛れた木の上には赤い靴の先が見えた。足元にも、そこかしこに遺品が転がっている。 生存者がいたなんてとても信じられない。この現場をどう撮っていいのか皆目見当がつかない。遺品や自衛隊の作業、焦げた機体を撮ったもののどうにも釈然としない。小一時間いたのだろうか、同行した記者の「もういいだろう」と怒ったような、それでいてどこか投げやりな言葉に頷き、現場を降りることにした。


降りながらも釈然としない思いは続いていた。「俺はここまでなにをしに来たんだ?単なる好奇心か?」実は、朝のデスクからの指示は「現場に行かず、周辺の取材をしろ」ということだった。現場の写真は共同通信などから手に入る。それより阪神の球団社長や歌手の坂本九も犠牲者になっていることからそっち方面を取材してくれというのだ。


現場の3人の意見は「登らせてくれ」で一致していた。ここまで現場近くにいるのだからという思いだった。スポーツ新聞の記者が現場に行っても何も出来ないことは分かりきっていた。でもどうしても現場に行きたい。


そこまで言って行ったところで結局何も出来ないで山を降りる羽目になってしまっている。このまま帰るのは嫌だ。もうふもとまで30分というところで下から登ってくる2人連れが見えた。近づくとお坊さんとその弟子だった。話を伺うと、「犠牲者の慰霊に参った。ニュースを聞いていてもたってもいられなくなった。これから供養のために山を登る」と言う。記者がコメントを取る横で写真を押さえる。山を登るところを写真に収めるとお坊さん達と別れた。


分かれて10分。どうしても気になる。同行の記者に「彼らについてもう一度登る」と告げた。登りに4時間、下りに3時間、登山口まで後残りわずかのところまで来ていた。午後3時前、これからもう一度登るのは無謀とも思えた。でも昼間撮った写真でいいとはとても思えない。お坊さん達についてもう一度登ろう。


彼らはぞうり履きだ、そんなに離れてはいないはず。これまで撮ったフィルムを記者に渡すと後を追った。25歳、体力は人生の中でピークを迎えていた。疲れはあったがまだいける。 元来た道をたどるのは早かった。両手両足を使って斜面を駆け上る。


だが調子よくいっている時に限って落とし穴が待っている。一度来た道という慣れからコース取りが雑になってきた。朝は慎重に目印をたどってきたのに、段々とそれをおろそかにしていった。


気づいた時は谷の底にいた。初めて見る景色に段々と焦りを感じる。人影もまったく見えない。見たこともない川がある。間違いない、道に迷った。 根っからの方向音痴を自認している。自分の感など何の当てにもならないのは分かっている。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせてみるものの、どうしていいのかまったく分からない。今来た道すら藪に覆われどれなのか分からない。


「だれかー!」大声を出すが返事は返ってこない。山に取り残された恐怖が身体に染みる。足を滑らせて怪我でもしたら確実に「死」が待っている。 声を張り上げながら谷を這い上がった。するとはるか先にキラリと光るものが見える。人影だ。転がるように駆け上がる。コースリボンを見つけた時は涙がこぼれた。助かった。


その同じ時、フォーカスのカメラマンと静岡テレビのクルーが御巣鷹山山中で遭難していた。撮影の帰り、誤って川沿いを歩き、崖に取り残されてしまったのだ。山中で一夜を明かし、たまたま通りかかった毎日新聞社のヘリに発見されて自衛隊により救出された。


後日、その話しを知り合いのフォーカスカメラマンにすると、彼は自分の方に指を向けて「俺だよ、俺」と苦笑いをした。道を外れたのは分かっていたが、川沿いに下れば何とかなるだろうと思っていたと言う。大型無線機もコンパスも山中に入ったら何の役にも立たなかったらしい。僕も一つ間違えば遭難していたのだ。


山頂近くでお坊さん達にようやく追いつた。もう日は傾きかけ山の半分は日が暮れていた。お坊さんは現場に着くと、斜面に祠のように穴を掘り線香を立て、墜落した機体に向け手を合わせた。夕暮れ時、うるさいほどの蝉の鳴き声の中、山中に読経が響いた。居合わせたマスコミ、自衛隊の人間も頭を垂れ、手を合わせた。


ようやく撮り終えたという実感がわいた。ぐずぐずはしていられない、早く帰らないと日が暮れてまた道に迷ってしまう。マスコミの大半は山に残るようだった。自衛隊から弁当と簡易テントが支給され、野営の準備を始めていた。


ふと横を見ると新聞社の腕章をしているカメラマンが携行食として持ってきたのだろう、コンビーフの缶を開けて噛り付いていた。


ショックだった。あの現場でコンビーフが食える、そのくらいの根性がないと報道はつとまらないよと言われているようだった。「不肖宮島」のように、報道には常人では考えられないメンタリティの人間がごろごろいる。それを目の当たりにした思いだった。


山を下る自衛隊の一団を見つけ、一緒に下りることにした。これで道に迷うことはない。隊員に今日2度目の現場だというと、目を丸くして「レスキューだってやらないよ」と驚かれた。帰りは早かった。4時間かけて登って、3時間かけて下り、3時間かけて登って、2時間半で登山口に着いた。12時間以上、山を歩いていたことになる。


登山口に待っていてくれた車に乗り込み東京へと戻る。汗と泥とで全身真っ黒だった。シートに段ボール紙が敷かれ尻にはビニール袋を巻きつけて座った。社に戻ると早刷りの新聞が上がっていた。写真は遺体を収容する自衛隊が大きく使われ、山を登る僧侶の写真も小さく使われていた。 急いで撮ってきたフィルムを現像し、「現場山中で読経をする僧侶とそれを囲む自衛隊員」の写真を大きく引き伸ばした。写真にキャプションをつけ、記者に状況を説明し記事が作られた。次の版では写真が差し替えられレイアウトも大きく変えて紙面が作られた。


アパートに帰ったもの気持ちは高ぶり続けている。シャワーを浴びて飲み屋に行くが焼き魚も、刺身もまったく身体がうけつけない。見るのもだめで注文したのにかかわらず一口もつけず下げてもらった。ご飯も喉を通らない。唯一、冷奴をビールで流し込んだ。山で見たコンビーフ男が頭をよぎる。彼は今頃、現場で夜を迎えているはずだ。


翌15日、またしても遺体が収容される上野村へと向かった。地元中学校の体育館に次から次へと運ばれてくる。中では検死が行われ、身元判明が急がれた。ホルマリンの臭いが周辺にまで漂ってくる。結局その体育館は臭いが染み付き使い物にならなくなり、その後取り壊されることになった。


遺族の写真を撮るのが重要な仕事の一つ。特に歌手坂本九の遺体がいつ判明するかが焦点となっていた。24時間体制でその時を待っている感じだった。体育館前の駐車場に新聞紙を引いて寝泊りするものもいた。皆暑さと疲労でぐったりしていた。


とにかく身元が判明するまで帰れない、早く見つかってくれという思いで一杯だった。3日後に坂本九の遺体が判明した。柏木由紀子と娘2人を容赦なくマスコミが襲う。もみくしゃにされながらも気丈に対応していたのが印象に残る。坂本九の遺体を載せた車を追いかけるように僕らも東京に戻った。




こうして僕の1985年の夏は終わった。 しかしその後半年、年が明けるまで体調は戻らなかった。身体は元気なのだがどこか力が入らない。写真も撮れたと思って帰ると、肝心なところが抜けていることが続いた。そんな時とんでもない噂を耳にする。


墜落した123便には医療用のプルトニュームが積んであったというのだ。容器が破損していれば被爆の恐れがある。そのため墜落現場が早くに特定できていたのにかかわらず入山できず、特殊部隊が現場入りして被爆度を検証したと言う話だ。7本あるプルトニュームのうちの1本が回収されず、川に落ちた可能性が高いと言う。


あの、自衛隊に水を勧められた川のことだ。被爆度が少ないと数年かけて身体に症状が出る。10年後には自衛隊やマスコミがバタバタと倒れるのではないかという噂だった。体調が不安定なところへその噂はこたえた。悪いほうへ悪いほうへと考えてしまい、ますます体調を崩した。しかもその川には腐らぬよう遺体を漬けておいたというのだ。ますます気が滅入ってしまう。


その呪縛からようやく抜け出せたころ、またしても雑誌でプルトニューム不明事件のことが大大的に取り上げられた。誌面では大量被爆者の可能性が高いと報じ、またしても落ち込むことになる。


17年経ってそれは杞憂だとようやく思えてきた。それでも何かの拍子にそのことを思い出しては嫌な気分になる。




新聞社に骨を埋める気はなかったが、この事故の取材が退職を速めたのは間違いない。あの取材から段々と写真が嫌いになっていった。写真展も、写真集も、写真の雑誌すらも見るのが嫌になっていった。このままでは本当に写真が嫌いになってしまう。そう思えるのがとても悲しかった。それから1年半後、丸3年勤めた新聞社を辞めた。社を後にする時、とても晴れやかな気分だったのを覚えている。




そういえばなぜあの時に写真部に人がいなかったのかと言えば、写真部員の定年退職祝いをしていたのだそうだ。原稿があがったものから順次、飲み屋へと向かっていたのだ。まったく持って間が悪い話だ。

(2002/08/15)